【 訴え続ける身体 】

原因はどこにあるのだろうか・・・

 

イライラする ⇒ イライラする身体なのだ

やる気が出ない ⇒ やる気が出ない身体なのだ

何となく不安 ⇒ 何となく不安になる身体なのだ 

 


  1、イライラする身体  

イライラするのは本人が怒りっぽいからではなく、イライラする身体なのだ。イライラする身体は、怒りに捌け口を求める。常に怒るべき対象を探し求めている。怒ることで出口の見い出せない過剰なエネルギーを爆発させて、精神の平衡を保とうとする生理的自然現象なのだ。

 

イライラしないようにしようとすればするほどイライラしてくる。いつもその繰り返しで、それを分っていながらイライラすることに更にイライラしてくる。しかし、怒りを抑えられず怒鳴り散らし、当り散らし、自分で自分を孤独な状況へと追い込み、人間関係を狭め、一人しんみりと後で後悔する。

 

「あ~どうしていつもこうなんだろう・・・」と。怒りの正当性を探そうとしても見つけられず、どうしていつもこうなんだとさらにイライラしていくる。やがて怒る理由の正当性よりも、怒ることそのもの、自身の内に溢れ出す怒りのエネルギーを燃焼させること自体に熱中してくる。そのうちに、ただ怒っているだけなのに、正しいもののために、正義のために怒っているんだと言い出す。自分では、正しいことを言い、正しいことの為に怒っていると思っている。怒りとして噴出するエネルギーの意味を何かで正当化していく。

 

「かくも正義の怒りの炎に我が身を苛む自分こそ、周りの人たちの温かい理解や励ましがあってしかるべきではないか・・・。どうして自分のことを分ってくれないのか・・・。理解してくれようとはしないのか・・・」

 

と思っても、周りにとっては迷惑なばかりで、迷惑ばかりをかけていながらそれを是とする者は、周りの人たちも理解の対象外。治まらない怒りの連鎖に、我が身と心を怒りの炎で焼き尽くす。だれからも理解されず、神の恩寵の蚊帳の外、イライラする蚊の盤踞する荒野にただ一人で住む孤独な住人。 

 


  2、やる気が出ない身体  

やる気が出ないのは、本人がダメだからではなく、やる気が出ない身体なのだ。自分のやる気のなさを、不甲斐ない、このままではダメだと自分を責め続ける毎日。自分を奮い立たせようとしても疲れてしまうだけ。やる気が出ないのだから疲れるのも早い。この疲れすら自分がダメだからと自分で自分を責めたてる。やる気がでないのに、出ない自分を責め続ける地獄の連鎖に懊悩する毎日。

 

「頑張ろう、このままではだめだ!」

何とかしようとは思うがやる気がでない。

 

「頑張る?」

「どうやって、何をどうやって頑張るのか・・・」

頑張る頑張り方自体が分らない。 

「それなのに頑張れって・・・」

 

答えの出ない問いの落ち着く先は、答えが出ないといつもどおりの答えに疲れることだけ。何とか頑張れない理由を見付け出しては、とりあえずそれで納得するしかない。しかし、本心ではそれは嘘だと分っている。「それは本当ではない・・・」と。

 

けど、どうしてもその偽りの自己弁明を弱った自分は退けることができない。頑張れない自分に対する世間の視線に、剥き出しの生身を晒す訳にはいかない。嘘と分る自己弁明の衣であっても着ていたほうがマシというもの・・・。 

 

けど思う。人としてこの世に生まれてきたからには、自分にも何か使命があるはず。これが自分だ、自分はこれをするために生まれてきたんだと思えるような何かが。それは仕事なのか、誰かとの出会いなのか、それとも天命の知らしむるところの何ものなのか、それが分からない・・・。何であれ事の是非は知らず、ただ心からそうありたいと願う何かと早く出会いたい。早く出会って命の炎を燃焼させ尽くしたい。

 

その何かが分からない。何処にあるのか、何なのか、出会うべき人は誰なのかも。その思いだけが虚しく空回りし、当てもなく彷徨する魂の軌跡だけが昨日という無駄に過ぎた日に烙印として残る、そんな毎日。しかしそれは、やる気がでないというより、真に自分が求めているものに出会えない苦しみというべきものなのかもしれない。 

 


 

3、不安になる身体

 

何となく不安になるのは、何となく不安になる身体だからだ。不安の中身は第三者から見れば些細なことにみえても、当人にとっては、ずうっと背負い続けなければならない業苦のように思える。自分に背負わされたこの苦しみに何か深遠な意味を見い出そうとするが、結局は不安は不安でしかなく、ただぼんやりと不安としか答えようがない。

 

不安が不安に悩む心を揺り動かし、更に不安を不安で増幅させて行く。「自分が弱いからそうなのだ、もっと強く前向きに自覚的に生きなければ・・・」、そう思えば思うほど自分で自分を急き立て、自分を不安へと追い立てていく。

 

「お酒を飲めば酔って不安感も安らぐ気がする・・・けれど酔いも醒めれば元のまま・・・。何処かに旅行にでも行けば、嫌なことも忘れて不安も和らぐ気がする・・・。けれどいつかは帰る元の現実・・・。お酒を飲んでもどこかに旅行に行っても何か楽しくないし、楽しめない・・・」

 

やがて自分の内に住み着く不安に囚われて、自分の周りの人たちへの小さな思いやりや笑顔を振り向ける余裕すら奪い取られていく。周りからは、愛想のない人!挨拶もちゃんとできない!何か暗~い人!と思われ・・・。

 

「しかし、そうではないのだ。周りに笑顔を向ける余裕すら、胸を塞ぐ不安に振り回されて奪いとられているのだと・・・。それに倦み疲れ、浮かぶべき笑顔も浮かばないのだと・・・」と。不安になる身体は、周りへの生気ある関心を徐々に奪っていく。公園で楽しげに遊ぶ子どもたちの漕ぐブランコの音ですら「憂鬱・・・憂欝・・・」と響いてくる。

 

社会的なつながりもあるし、友人家族もいる。けど社会にいても、人といても、孤独感が募るばかり。つながりがあっても、本当の自分が理解されている訳でも、受け入れられている訳でもないのだと思う。つながりたい、深く人とつながって安心したい。けどそう思えば思うほど、人とは和しがたいものを感じる。この人はと思っても、この人が自分のことを、自分が思うほど思ってくれるとは限らない。離れていれば寂しい、けど近づけば理解し合えない孤独感に苛まれる。いったいどうすればいいのだろうか・・・?

 

もし本当に困ったことがあったら、誰かに助けてと言えるだろうか?助けてといえる人が自分にはいるだろうか?本当に困ったら誰かに相談するのがいいと知識としては分かっている。けど問題の中身が深刻であればあるほど、人には相談できない。助けてとは言えない。迷惑をかけたくなし、同情されるのもイヤだから・・・。本当の意味での自分の心情を吐露することは誰にもできないのではないか。心情的に社会の谷間にいるように感じても、手を伸ばせば人と接することができるにも関わらず、個として孤立したままでいる。何をどうすればいいのかが分からない。

 

結局は、自分という役割を演じているだけなのかもしれない。第三者からの視線を意識し続けながら繰り返される毎日。その視線にさらされ続けることが不安でならない。役者であれば舞台が終われば、もとの自分に戻れる。第三者の視線に晒されるのも舞台の上だけのことだ。どんなに切り裂くような不安と孤独に苛まれる役柄を演じようとそれは舞台の上だけのこと。けど自分は、舞台を降りても本当の自分に帰れない悲しい役柄を、社会や家庭でずっと演じ続けているだけなのかもしれない・・・。

 

何か大きなものに自分が肯定されるような安心感が欲しい。いまこうしている自分は、軽く弱々しく感じる。現実が軽く感じられる。現実にリアリティが感じられない。人からも・自然からも・社会からも切り離された孤立感がさらに不安感を増長させる。何かに脅え・何かに不安となり・何かにビクビクしている。なぜ不安になるのかが分からないことが余計に不安にさせる。